アシュタンガヨガに向いている体?向いていない体?

この前以前クラスに通ってくれていた生徒さんが久しぶりに楽の森シャラに練習に来てくれた。 クラスに通ってきてくれていた当時から随分と時間が経ったので最近の練習はどんな感じかお聞きする会話の中で「私ってそもそもアシュタンガヨガ向きの体ではないので」という言葉が出てきたので「アシュタンガヨガ向きの体ってどういうことだろう?」と思った。

そういえば、昔、練習で腰を怪我して整骨院に治療に通っていた時にもそこの先生に「治療してたら分かるけど、本来生まれつきの体はとても堅いからヨガには向いてないよね。よくその体でここまで来たね。本当にあなたは努力の人だよねえ」と私が言われたことを思い出した。

 

ヨガ向きの体? アシュタンガヨガ向きの体ってどういうことだろう?  と思うと まあ多くの人が考えるのはちょっと練習したらすぐに体がコツを覚えて思うように体が動くとか、 練習を始めて少しの期間でみるみるうちに体が柔らかくなったり、筋力がついたりしてどんどん、アシュタンガヨガで言えばポーズが進んでいってそんなに怪我やトラブルもなく練習ができる体のことを言いたかったのかな、とも思う。 整骨院の先生はヨガをしていない人だからおそらく解剖学的に、筋肉の柔軟性や強さ、骨格の面からフィジカルサイドから「ヨガ向きの体」という言葉で表現したのだろうけれど、 ヨガの練習を始めて数年とかまだ期間が短ったり、心が全くもって西洋医学でいう肉体の一面だけに意識がいっているとそういう言葉が出てくるのは当然だろうし、おそらくヨガをしていて肉体面だけの意識が強いとそういう言葉になるのかなあ、とも思ったりした。

 

確かに肉体面だけを見ると私の体はとても変わるのは遅かった。 それこそ後屈なんてとても苦手だし、鋼の股関節だし、だから毎日練習をしていても、12年以上も練習していても練習を始めて数年の人達にあっという間にポーズの進み具合は抜かされていったりもしたし、それが昔は悲しかったし、 クラスをしていく、という立場になって初めのうちはこんな大して体も動かない自分、なかなか体が変わらない自分に劣等感や焦りも感じていた。

でも、アシュタンガヨガを肉体面だけの進化、 難しいポーズに進んでいくことだけが優秀な練習、とかポーズが進んでいくことに優劣を感じて競争意識を持って練習しているといつか必ず練習が辛くなるし、焦燥感を感じるようになると思う。 振り返れば過去の私がそうだったから。 そして怪我もしたし、練習が精神的につらいのに、練習は何故かやめられず、 それでも進んでいくうちにやっと先生の言葉の意味を理解できるようになって練習への向き合い方が変わって苦行の練習から楽しむ練習に変わっていった。

 

アシュタンガヨガのポーズの練習は単なる一部であって、ポーズの練習を通して、自分の思考のパターンを認識し、自分の弱い部分、認めたくない部分に否が応でも向き合い、それを認めて受け入れて練習していく、 一見肉体の鍛錬のように見えても実は精神的な成長のための鍛錬であると私は思う。 だから体が動く人は壁にぶつかるまでポーズは進むことはあるかもしれないけれど、体をなかなか動かしにくい人、堅い人や弱い人は少しのポーズで壁にすぐにぶつかるから、そこからすぐに自分の心に向きあうステージに立つことになる。

だからそこで練習時間は集中することがとても大事だし、練習中に他の人の練習に気がとられて意識がそこへ持っていかれるのはとてももったいないことだと思う。  集中して自分の体の感覚に向き合うからこそ自分のことが見えてくるし感じられるのに、意識が外へ行くのはそれを自分で感じられなくしていることだと思う。

自分の心を感じて観察し、自分の心の思考パターンをポーズの練習を通して変えていく、そんな心の再教育に体が硬いとか柔らかいとか、足が頭の後ろにひょいといく、とか、もう年だからとか、 関係あるだろうか。

アシュタンガヨガの練習は一つのポーズができればまた一つと進んでいくから、どうしてもそこで目標達成意識、というか、競争意識というものが働いてしまいがちになる。 そして昨今のソーシャルメディアブームでインスタなんぞですごいポーズを見せて称賛をあびたいとか、集客のために、とか背景にある理由は様々だろうけど、 「ヨガって何ぞや?」の理解ができていない人が見ると無意識に自分はあんなことできない、と劣等感を抱いたり、私もできるようになりたい、と競争心に火がついたり、 と心が反応したりする。

ソーシャルメディアも使い方次第だと思うけれど、 私ってヨガに向いてないから、って練習を辞めてしまうとか、 アシュタンガって私に向いてないから、とかとても残念なことだなあと思う。

 

だから私のクラスではそんなアーサナの進み具合で優劣をつけるような意識を持たないように、 体を通して心を見るために練習する、ということに意識を持っていけるようにクラスをしたいと思って毎朝クラスの現場に立っている。

アシュタンガヨガは 身体面だけにフォーカスしてポーズが進むか進まないか、に意識を向けると体が硬かったり、年齢によって制限が出てくるのかもしれないけれど、 瞑想的な練習として、心の再教育の練習として向き合うなら何歳になっても練習できるし練習を続けたい気持ちさえあればずっと続けられるヨガだと思う。

私は自分の練習ではそういったことを教えてもらえる先生に出会えたから 単なる体操のヨガではなく、心が成長し、人生が大きくプラスの方向へ向かっていけていると思えている。  楽の森のシャラのクローズが決まり、移転先を探している時に先生から「自分がクラスを通してどんなことを伝えていきいたいん?」と問われたことがあったけれど、その時は「ヨガの楽しさ」とすぐに答えたけれど、 それだけじゃなかった。

なんかそんなことを思い出した新月のムーンデイ。 5年前の2月の新月、ちょうど私はヨガインストラクターとしてクラスをすることを始めたのだった。  あれから5年、 今通ってくださっている生徒さん達に、これから出会うかもしれない生徒さん達にそんなヨガの教えが伝えていけるように頑張っていきたいなあと思う。

 

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