ゆっくり変わっていくことの面白さ

アシュタンガヨガの練習を毎朝することが習慣になってもうすぐ干支が一巡するくらいの年月が過ぎようとしている。30代前半にアシュタンガヨガに出会ってどっぷり練習にはまり、夢中になりすぎて時には酷い怪我をしたり毎日毎日痛みと向き合ったり、勢いでマイソールクラスを始めることになってからは自分の練習とクラスを開催し続けることのバランスに悩んだりとまぁ平坦でない道のりと毎日淡々と過ごしているけれど、最近また練習が改めてとても面白い。

例えばポーズを貰った時は自力では今世じゃ無理やろな、、できる気がしない、、と思っていたポーズが10年くらい経っていつしか自力でできるようになったり、昔はできているつもりのアーサナも最近になってまた体のどこの部位に意識を向けてどんな呼吸をしてするのか、とか自分の感覚をしっかり感じながら練習することが面白くてしょうがない。

できないポーズ、苦手なポーズも毎日の少しずつの変化、ちょっとできそうな気がする日もあれば、前日の練習でこうかも?分かったかも? なポーズの感覚が翌日には消えて分からなくなってしまったり、ずーっとあまり感覚を繊細に感じることがなかったところで10年以上かかってやっとなんか鮮明に感じれるようになったり。。

長い長い、何年にも渡るとても長い停滞期を過ごしていたから少しだけでもその停滞期の出口が見えたような感覚はそれはそれは何とも言えない感覚だ。

もともと子供の頃からは運動が苦手で体もカチカチの私。 クラスをしていて色んな生徒さん達を見てきて、またインドに通っていても感じるのは生まれつき身体能力に恵まれた人、また過去の運動経験などで体の使い方を分かっている人が結構アシュタンギには多い。 そんな人は私が毎日練習して4年や5年できるまでにかかるポーズもひょいっと少しの期間で軽々とできるようになっていく。どんどんポーズを貰って進んでいっている様子を見ていて昔の私はそれがとても羨ましくて元々持っていた劣等感をさらに強めていた。

今思えば別にヨガはポーズだけじゃないだのから、そこまで劣等感を抱く自分が少し愚かに思えるけれど、当時の私はポーズの出来の良しあし、どこまでポーズを進められるかで優劣を図っていたのだろう。

私はどんくさい、私は劣っている、って誰と比べてなのか自分でも謎だけど、 だけど随分と長い間周りと自分を比べては自分に劣等感を抱いて、でも練習は続けたかったから静かに練習に向きあえる環境が好きだった。

新しい人が次から次へと入ってくるシャラや人が多すぎるシャラ、なんだか他の生徒さんがポーズを進むことにギラギラしているシャラはとても苦手だった。 もともと競争なんて嫌いだし、そんな感じがするところからは自然と身を引いて結果、気がつけば静かに黙々と練習できるシャラを選んできている。

人はそれぞれ体も違うし、感覚を掴むまでの時間や体が変化するまでの時間も早い人もいれば遅い人もいる。 遅い人は時間をかけてじっくり変化するまでの過程があったからこそ、その変化への喜びは大きい。 遅かったからこそ感じれる喜びや面白さがある。

変化するまで何年かかっても、続けていればいつか必ず変化の時は訪れる。何年も一見報われないと思いがちなことを心折れずに続けるにはやはり先生の存在やシャラの存在が大きいのだろうな。

のろまな亀さんもゆっくりでも進み続ければいつしかとんでもない所まで進んでいたりする。きっとアシュタンガヨガの練習をどんくさい人がやり続けるのはそれと似た感じなのかもしれない。

体の感覚や呼吸の感覚って長く感覚の変化がなくても私が最近感じているような感覚の変化って長く諦めずに継続していけば出てくるもんなんだな、って改めて実感した。

あぁこれだから練習は止められない。 また明日も早朝から独りで黙々と練習する日々が続いていく。

 

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